详细介绍
小档案
1979-3-29
星座:牡羊座
血型:AB型
身高:152公分
出生地:东京
兴趣:作曲、服安装计、国际网络
青春活力、亲切随性、带来意想不到的惊奇!集合主持、音乐创作、歌手、广告、服安装计、开发计算机软件等多种才艺的友惠,不断地扩展自己的艺能版图。
筱原友惠在知名DJ石野桌球的全力栽培下,在出道时即展露她在音乐的才华,而友惠的创作才情和歌声在音乐上的表现完全不亚於其所拥有的其他才艺。 自1995年出版首张单曲来,她的歌即受到广大歌迷与媒体的肯定,特别是「以个性出发」的才艺形象,更受到多位好友如广末凉子、花*花等人的大力支持,这次维珍饮料广告曲「HAPPY POINT」就是出自友惠创作的歌词。 友惠还与Cibo Matto、Shonen Knife、Buffalo Daughter、Sean Lennon等多位另类歌手合作过,此外更曾与宇崎龙堂合组二人团体,翻唱美空云雀等多首成名歌曲。
篠原 ともえ (しのはら ともえ、1979年3月29日 - )は、日本の歌手、タレント、女優、デザイナー、音楽プロデューサー。1990年代末期に個性的なファッションと強烈なキャラクターで、「シノラー」ブームを巻き起こしたことで知られる。
小简介
1996年夏から1999年にかけて、恥ずかしくて誰にも真似できないと思われていた篠原のファッションを模倣するティーンエイジャーの女性が数多く現れて、一種のファッションリーダー化。当時華盛りだった安室奈美恵のファッションの模倣者「アムラー」になぞらえた「シノラー」と呼ばれるファンを多く抱え、まもなくその名が篠原の愛称にも転じた。当時の公式サイトも「SHINORER'S CLUB」という名称で、1997年1月1日にはファンクラブ「SHINORER'S CLUB"ぽよよ~ん"」が設立されている。(公式サイトは2002年に「シノハラトモエ ドットコム」に改名、2004年に再度改名し、現在の形態に定着。ファンクラブは2003年4月にクローズしている。)
シノラーの構成要素は、お団子頭で前髪パッツン、原色のかたまりのような服(初期はSUPER LOVERS)、ハーフパンツにサスペンダー、くしゃくしゃ靴下にごつい靴(初期はドクターマーチン)、変な化粧、100円ショップで売っている無意味にキラキラしているアクセサリー、おもちゃの腕輪と指輪、腕時計、縁日の露店で売っている腕パッチン(篠原曰く「ミラクルパッチン」)とカメレオン棒、おもちゃをいっぱいに詰め込んだポシェット、ゴーグル、そしてランドセル。以上の品をランダムに身に付ける。
トレードマークのお団子頭は、事務所に所属する前に「自分が一番伝わるスタイル」と自分で考え出したもの[1]で、前髪パッツンは切ると気合が入るから[8]。その他の髪型はヘアメイクによるもの。服装は初期はスタイリストの手によるもの[9]だったが、シノラーファッションが定着した後は自作の服に移行している。
篠原本人は、1997年12月に発表した初のバラード「ココロノウサギ」からランドセルを背負わなくなり、それ以降、曲調によって脱シノラー(客席にシノラー禁止令が出るほど)することが増え、デビュー当時のようなファッションをすることは徐々に少なくなっていった。しかし、レギュラー番組『LOVE LOVEあいしてる』の人気コーナー「篠原ともえのプリプリプリティー!」では番組の性格上ハイテンションのキャラクターを演じ続けなければならず、その結果、「篠原ともえ=シノラー」というパブリックイメージが完全に定着、台湾事件の釈明会見時にも、痛々しい姿にも関わらずそのキャラクターを強いられることになった。
その後、デビュー10周年を迎えた2005年の10月に改めてシノラー卒業宣言を行なっている。2008年1月9日には小学校時代から伸ばしていたロングヘアーを切り、シノラーのトレードマークのお団子頭をする事が不可能になった。
現在、シノラーは「デコラ」という名前で存在している。ただし元々シノラーとデコラは別々であり、シノラーは赤に黄色などと言った原色系の服装や上記のジャラジャラとしたアイテムが中心であり、デコラはピンクや水色言った淡いパステルカラーの服装やレースなどを用いたガーリーなアイテムが中心だった。しかし、篠原本人がシノラーを卒業したことで知名度が下がりいつしかシノラーとデコラは両方を指す事になる。その後、2006年あたりからファッション雑誌KERAで取り扱われることになる。
また、デコラにもロリータファッションやゴシックアンドロリータのように派生ジャンルが存在し、元々のパステルカラー中心とした「フェアリーデコラ」、ロリータファッションと合わせた「デコロリ(別名:姫デコラ)」、パンクファッションと合わせた「デコパン」と言ったジャンルが存在する。
なお、デコラの語源は装飾過剰を意味する「decorative(デコラティブ)」が語源である。
大事件
東京都青梅市出身。出生地は東村山市の病院[1]。実家は寿司屋で、3人兄妹の末っ子で長女。幼少時は大人しい性格だったが、小学4年の時にバレエを始めたのを機に明るすぎる性格に変わる。中学1年の時に軽音楽部でバンドを始める(ギター担当)。中学2年頃からデザインに興味を持ち、自作で服を作るようになる。母親の影響で漠然と芸能人を目指すようになり、中学3年の夏休みにソニーの「ちょっとそこまでオーディション」を受けるが落選。しかし、審査員の一人に気に入られ、とりあえずSDグループに出入りするようになった。
1994年4月、東京都立八王子工業高等学校応用デザイン科に進学。しばらく宙ぶらりんの状態が続くが、同年秋、オーディションの時の担当に連れられてモダンチョキチョキズのライブを観に行った際に、ライブ終了後の楽屋でファン意識丸出しではじけまくっていたところを音楽関係者に注目される。まもなくキューンソニーの社長石井俊雄(当時)に引き渡され、所属事務所が決まる[1]。
1995年春、キューンソニーの事務所で遊んでいたところをソニーのラジカセ「Dr.CHANGER」のCMの企画を持ってきたディレクターに見出され、女性ミュージシャンのプロデュースに興味を持っていた石野卓球[2]に引き渡される。同年7月1日に「篠原ともえ+石野卓球」名義のシングル「チャイム」でデビュー。
1996年春から夏にかけて、シングル「やる気センセーション」「クルクル ミラクル」のプロモーションで積極的に音楽番組に出演し、特異なキャラクターとして注目される。同年10月から音楽バラエティ番組『LOVE LOVEあいしてる』にレギュラー出演し、ゲストの楽屋襲撃コーナー「篠原ともえのプリプリプリティ!!」での機転の利いた傍若無人ぶり、無意味なハイテンションぶりで人気を得ると、数々のバラエティ番組でひっぱりだこになる。
同年末放送の「たけしさんまの俺たちのワイドショー」の1コーナー(司会:明石家さんま、篠原以外の解答者:ラサール石井、関根勤、村上ショージ)でもその異質なキャラクターを発揮し、「欠如」の読みを石井と関根に「けつにょこう」と教えられると、そのまま発音していた。
1997年3月1日発表のシングル「ウルトラリラックス」を最後に石野卓球がプロデュースから手を引く[3]。同月に東京都立八王子工業高等学校応用デザイン科を卒業。本格的にファッションデザインを学ぶため戸板女子短期大学被服科に進学するが1年で中退、翌年に文化女子大学短期大学部服装学科へ入学し直している[4]。
同年4月-6月、ドラマ『FiVE』で初の連続ドラマ出演。同年8月には映画『デボラがライバル』で銀幕デビューも果たす。
1998年、前年からCMで共演していたユースケサンタマリアとのユニット「カロゴンズ」として2枚のシングルを発表。同年8月発表のアルバム『MEGAPHONE SPEAKS』からはセルフプロデュースのもと、作曲を始める。同年末に所属事務所を移籍。
1999年、DREAM MACHINEに移籍。女性ミュージシャン用レーベル「Vita Celeste」発足第一弾ミュージシャンとしてシングル「君んち。」を発表。東京都内(23区)の駅構内や列車内中吊りに非売品CDを組み込んだポスターを貼り出し、「ご自由にお持ち帰りください」という前代未聞のプロモーションを行なう。同年3月29日、20歳の誕生日に日本武道館でライブ「篠原ともえお誕生日会 IN しのドーム」を行なう。
2000年1月、自主レーベル「JAGGED APPLE」レーベルを設立し、芳野わかめをCDデビューさせると、同年5月にはレーベルと同じ名を冠したファッションブランド「JAGGED APPLE」を設立し、ファッションショー「しのコレ」を行なう。同年10月に作詞作曲衣装デザインを手掛けたミュージカル「天使からの招待状」で初舞台を踏む。
2001年3月5日、アルバムのプロモーションで訪れた台湾で過労のため入院。取材に応じてもらえなかった一部の台湾のマスコミが「泥酔してホテルで大暴れ」と面白おかしく書きたて、日本のマスコミもそれに乗ったため、帰国後、マスコミへの釈明に追われることになった。台湾騒動の最中、3月12日に文化女子大学短期大学部服装学科を卒業。同月末にレギュラーの音楽バラエティ番組『Music Museum』『LOVE LOVEあいしてる』が相次いで終了[5]するとバラエティ番組の一線から身を引き、同年夏、新曲録音中に喉を痛めると音楽活動の一線からも身を引き、篠原ともえ引退説[6]がまことしやかに囁かれることになった。
2002年、日本初のインターネット生中継でのレギュラープログラム 『Happy Store』でパーソナリティーを務める。2003年、親友の松本英子とポップユニットZuTTOを結成、翌年に300円CDを発売し、話題になった。
2005年には以前から交際を公表していた中村獅童と竹内結子の結婚が発表され、破局していた事実が明らかとなり周囲の同情を集める。
2004年5月から子供番組『モンすたージオ』に出演し、低年齢のファン層を開拓。同年8月にはアストリッドリンドグレーンの童話「長くつ下のピッピ」原作のミュージカル『長靴下のピッピ』に主演して好評を得るとともに主婦のファン層も開拓[7]。同年から再び音楽活動も精力的に行い、2005年にはチボマットの本田ゆか、chikage、スティーヴエトウとのアートユニットPANIKARAQS、2007年にはDJのKAGAMIとのエレクトロポップユニットTokyo Flash!!!など様々なジャンルでの音楽活動を行なっている。