基本信息
姓名原田真二 别名暂无
国籍日本 出生地
语言 性别
生日 星座
身高 体重

详细介绍

広島市立舟入高校2年在学中、フォーライフ・レコード新人オーディションに応募。吉田拓郎に見出され3,000曲の中から選ばれた。1977年青山学院大学経済学部入学と同時に上京。18歳だった同年10月、拓郎プロデュースにより「てぃーんず ぶるーす」でデビューした。

所属事務所のアミューズは、現在は大手となっているが、渡辺プロダクションのマネージャーだった大里洋吉(現会長)が退社直後に原田を紹介され、原田のために設立したものであった。アルバム(LP)中心のアーティストのためのプロダクションをやりたいと考えていた大里のところに、原田に最初に接触したバーニングプロダクションとフォーライフが原田のプロモーション・マネジメントを持ちかけた。「マスメディアを使うにもバーニングでは原田との接点がない、フォーライフではマスメディアとの接点がないということで、ぼくが間に立つことになった」と大里は説明している。

「てぃーんず ぶるーす」発売後、翌11月に「キャンディ」、12月に「シャドー・ボクサー」をリリース。「3ヶ月連続レコードリリース」という、前代未聞の形でデビューを飾ると3曲が同時にオリコンベスト20入りするという、日本音楽史上初の快挙を達成した。「3ヶ月連続レコードリリース」は大里のアイデアによるものだが、どの曲も捨てがたく1曲にデビュー曲を絞れなかったという事情もあった。ちなみに「てぃーんず ぶるーす」、「キャンディ」、そして翌年に発売された「タイムトラベル」は『三部作』と呼ばれる。更にファーストアルバム「Feel Happy」(1978年2月発売)も、オリコン史上初の初登場第1位を獲得した。

「日本のニオイのまったくないメロディー」などと評され、それまでとは比べものにならないくらいポップ感覚にあふれた洋楽的なサウンドは、「和製ロック」に新しい可能性と展開をもたらした。 原田自身も「最初から洋楽のロックの世界を目指した」と話している。[11]ポール・マッカートニーやエルトン・ジョン、ギルバート・オサリバンなどのロック系シンガーソングライターに通じる本格的なポップス感覚は、それまでのフォークを基調にした"私小説的"な、日本のシンガーソングライターのイメージを覆した。また男性のピアノの弾き語りというスタンスが珍しかったこと[、その特徴あるカーリーヘアーと少女マンガの世界から飛び出したような可愛いルックス、ハスキーボイスが、女子中・高校生を中心に絶大な支持を受けロック・アイドル的人気を博した。すさまじい人気は本家・男性アイドル新御三家を完璧に食い、洋楽アイドル、ベイ・シティ・ローラーズらにも対抗した。当時はまだ"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮がある時代であったが『ザ・ベストテン』(TBS、1978年1月放送開始)が始まったこの時期、大里と拓郎は原田を積極的にランキング番組やアイドル系歌番組にも出演させた。『ザ・ベストテン』には第3回(1978年2月2日)放送で、ニューミュージック系歌手として初出演(※1.2回にランク入りした中島みゆきは出演せず)、以降も毎回のように出演し、少し早くデビューしたChar、同時期デビューした世良公則&ツイストとともにロック御三家と呼ばれ、初めて頻繁にテレビ出演したロック系ミュージシャンであった。また「月刊明星」などのメジャーなアイドル雑誌、芸能誌にもすすんで登場。当時アイドルの最大のステータスともいえた「月刊明星」の表紙をロック系ミュージシャンとして初めて飾るなど(1978年3月号)極めて歌謡曲的な売り方、話題先行型のプロモーション戦略をとり、これが見事に的中した。原田らが成功したことで、シングルチャートやテレビ、ラジオの歌謡曲番組へのニュー・ミュージック系ミュージシャンが、地すべり的に大量進出する傾向が決定的なものとなり、日本の音楽シーンの流れが大きく変わった[。結果的にロックはアイドル化・歌謡曲化してゆくことでメジャー化し、巨大ビジネスとなっていったのである。原田の登場は、後に続いた多くのポップシンガーに大きな影響を与えており、その功績は図り知れない。

原田は最初から全て一人でソングライティングできる能力があったが、売り出すために最も重要なデビュー曲を原田作品で行くのか、プロデューサーの拓郎作品で行くのかについては、なかなか決まらなかった。拓郎は原田のために渾身の一曲を用意していたが原田が譲らず、大里が押し切る形で原田作品で行くことに決まった。「てぃーんずぶるーす」というタイトルで後に売り出されたデビュー曲は、「君の世代へ」というタイトルで原田が詞も付けものが既に出来ていたが、当時の暴走族問題を絡ませて世界平和を訴えるという重い内容であったため、この詞はボツになり、結局拓郎は、曲は原田で、作詞には松本隆を起用した。松本は「原田を見たとき、男の子の痛み、壊れやすい少年の世界観が表現できると思った」「原田がセールスに結び付けられたことで、"男の子のアイドル""ボクの少年シリーズ" を、後の近藤真彦で集大成させた」と述べている。

『ザ・ベストテン』で黒柳徹子から「ビーバーちゃん」という愛称を付けられ、アイドル性が強調されたが、生意気でけんかっ早いことで有名だった。「僕の歌は歌謡曲じゃない。歌謡曲って独特の雰囲気があるでしょ。やっぱり最高にイヤですから」「再来年あたりには、全米ツアーに出たい」などとインタビューで答えたり、『8時だョ!全員集合』に出演した際に、曲が茶化されたと「少年少女合唱隊」のコントを拒否して帰ってしまい、いかりや長介に「今日は帰ったヤツがいる」と言われたり、『TVジョッキー』で「僕は"アーティスト"の原田真二です」と自己紹介すると、この"アーティスト"という呼称に司会の土居まさるが激高したこともあった。 原田のあとデビューしたやはりピアノの弾き語りで歌う越美晴が、やっぱり生意気で"女・原田真二"というあだ名を付けられていた。また、宗教とは無関係とは話すがコスモポリタンやタントラ、救世主、黙示録、潜在意識といった、当時としては誰も知らないような難解なフレーズや宗教用語を使って話すので、ファンやマスメディアを混乱させた部分もあった。

この他、当時の音楽番組は基本的に生放送で、出演歌手は番組専属のオーケストラのバック演奏で歌っていたが、生番組で自らのバンドを率いて演奏する原田らと番組スタッフが、演出法に対してもめる事が多かった。短時間の間にバンドを入れ替えセッティングするのは難しかった。メインのスタジオと別にセットを組む、別スタジオからの中継は原田らの登場から始まったもの。これらの改善も含めて彼らの頻繁なテレビ出演は、後のテレビ界・音楽界に多大な影響を及ぼしたといえる。

1977年には東京12チャンネル(現・テレビ東京)に「歌おう!原田真二と」というタイトルの30分枠の音楽番組も持った(毎週水曜日夕方4時30分から)。ゲストも登場するが(天馬ルミ子など)主に原田とピアノ越しに出てくる人形が会話をしながら進行する原田の曲がメインの音楽番組であった。1978年7月24日、デビュー1年目(10ヶ月)、10代ソロ歌手、では史上初の日本武道館公演。この武道館公演は、数曲、サックスプレイヤーの手を借りた以外は、原田のバンド5人で全ての音を出した。ギター1本の弾き語りの松山千春を除くと武道館コンサートでは、最も小さい編成でやり遂げ、バンド総体としてのハイレベルのパフォーマンスも高い評価を受けた。武道館公演を皮切りに、全国13ヶ所を回った体育館ツアーも井上陽水がやって以来のものであった。

同年、4枚目のシングル「タイムトラベル」で『第29回NHK紅白歌合戦』にも初出場。この紅白では、原田を含めて全員初出場だったツイスト、さとう宗幸、渡辺真知子、サーカス、庄野真代の紅白六組が「ニューミュージック・コーナー」という括りで続けて歌わされた後、ステージの上で一列に整列、みんなで審査員の講評を受けるという非常に珍妙なステージもやった。

フォーライフに送った応募テープは、一人で多重録音をしていたといわれ、ピアノの他、ギター、シンセサイザーもこなし編曲も自分でやったといわれる。セカンド・アルバムをセルフ・プロデュースしたように最初から音楽的すごさ・才能のずば抜けた"早熟の天才"であった。デビューアルバムに参加した鈴木茂が、「ほとんどやることはなかったよ」と言ったという。

しかし3万人とも言われたファンクラブ会員の女性がいたこととは裏腹に、“自分がやりたい音楽”が“アイドル”という括りにされることからうまく出来ず、デビュー3年目に独立。クライシス(現・エアーフィールド)を興す。

その後はデビュー時ほどのヒットは無いものの、コンスタントに自作を発表しており、現在までにリリースされたアルバム・シングルは50枚以上になる。1980年代からはソングライターとしても活躍し、吉川晃司や松田聖子とのコラボレーションでは、オリコンベストテンヒットも出している。その他のアーティストにも150曲以上の楽曲を提供。またCM・TV番組テーマ曲・ミュージカル音楽など多方面で活躍。近年は小学校の校歌も手がけている。

2000年からは、自然環境・心の環境問題(やさしさの復活)をテーマにしたチャリティーイベント「鎮守の森コンサート」を定期的に開催。全国の神社をその会場としている。

2001年から2004年まで松田聖子のライブパートナー、プロデューサーとして活躍。これは少女期にファンクラブに入るなど原田ファンだった松田からのオファーであった。

2005年よりNPO法人「ジェントル・アース(Gentle Earth)」を立ち上げ、以後大小様々なチャリティーイベントにも携わっている。

二人の息子も音楽の道を志しているという。
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